~まちあるき 竹早高校あたり~
文 ・15回生 初宿 信子
(写真はクリックするとフォトギャラリーに移動します)
15回生の初宿と申します。現在は埼玉在住ですが、生まれ育った文京区への愛着絶ちがたく、文京ふるさと歴史館友の会の「文京まち案内」というボランティア活動に参加しています。会報17号に「文京まちあるき 竹早高校あたり」を書きましたところ、篁会より依頼があり、9月の竹早祭のイベントのひとつとして実現しました。

竹早高校を出発
|
初めての企画でしたが、15回生6名、17回生1名、現役生のお母さん、会長の9名が参加、竹早祭終了後の3時に校門前を出発しました。伝通院→幸田露伴旧居跡→永井荷風生育地→徳川慶喜終焉の地→銅(あかがね)御殿→同潤会アパート跡という2時間コースを案内させていただきました。
〇 伝通院

伝通院
|
高校の近くにあるのに訪ねたことがないという人もいました。徳川家の墓所として有名です。家康の生母於大の方、秀忠の長女千姫、家光の正室孝子のお墓がありますが、それだけでなく、新選組の前身、浪士隊発祥の地(処静院)と知って歴史好きの友は大感激!でした。
〇 幸田露伴旧居跡
露伴は、関東大震災後から、昭和20年5月の空襲で焼けるまで、ここで暮らしたのですが、露伴歿後、娘の文が同じ所に家を建て、その娘玉と暮らします。昭和30年代、通学の行き帰りに、家の前に立つ椋の大木が、格好の休み場所でした。着物姿の文を見かけたこともありました。前会報に載せた写真は、冬景色でしたが、この時は葉も繁り、昔のおもかげを残していました。
○ 永井荷風生育の地
荷風は、明治12年ここで生まれ、同26年飯田町に移るまで、ここに住みました。他所へ越した後も、小石川が懐かしかったのでしょう、何度も訪れています。以前、同期生を案内した時に、「私の伯母が荷風と暮らしていたことがあると母から聞いています」と、話してくれました。資料で調べたことだけでなく、こうした生きた話が聞けるのもまちあるきの楽しみのひとつです。
○ 徳川慶喜終焉の地
会報に載せるために調べものをしていた時、『竹早の百年』に、大正2年11月22日に慶喜が亡くなり、29日には府立第二高女でも屋内体操場で追悼式を行ったという記録を見つけ、歴史と我が母校との接点だと喜んでいたのですが、会報発行後、もっと嬉しいことがありました。昭和9年卒の今年90歳になられる大先輩から、「昭和5年の慶喜孫喜久子様の高松宮家へのご婚礼の時には、第二高女の生徒達も沿道に並んで、旗を振ってお祝いしました」とお便りをいただいたのです。
○ 銅御殿
茗荷谷駅の向かいの交番の先に、大正元年完成の銅御殿があります。

銅御殿門前
|
銅板葺きの屋根、木曽の桧、屋久島の杉、御蔵島の桑を使った、近代和風建築の粋といわれる建物です。消滅の危機は、当主夫妻の強い願いで免れましたが、相続で分割した部分で、マンション建設が始まってしまい、建物への影響が心配されています。当日は中へは入れなかったのですが、10月に見学会があり、同期生の何人かは、敷地内からこの貴重な建物を見学することができました。
○ 同潤会大塚女子アパートメント
高校通学時に、茗荷谷駅前の当時にしてはめずらしい高層の建物が何なのかいつも不思議に思いながら、都電の中から見ていました。それが、昭和5年、同潤会により建てられた、国内初の女子独身者のための建物だったのです。
昭和23年、後に作家、歌手となる戸川昌子さんが入居し、37年、このアパートの住人をモデルに『大いなる幻影』を書き、江戸川乱歩賞を受賞します。 「木村よね子の場合」という章では、彼女の元の職業が、「竹林高女」の教師というのです。きっと、第二高女、竹早高校を意識したネーミングではと嬉しくなってしまいました。