凄い人には、偶然出会う様々な人や出来事と素直に向き合い、一生懸命に取り組んでいるうちに、たくさんの経験を経て、気が付いたらある道の専門性を極め、幸せをつかんでいる人がいる。このことは近年、成功者の心理・行動特徴(偶然の計画性)として海外で研究発表されているが、藤田淑子さんの人生の歩みはまさに偶然の計画性である。そして、その歩みをゴールへと導いた最大の偶然は、ご主人「藤田宏さん」の存在である。
出会いを大切にすること。そして人を信じ切る。
藤田淑子さん(旧姓 斎藤さん) 1948年卒
1930年生まれ 父 斎藤良俊(昭和医科大学外科教授)
母 万寿子(伊能忠敬の6代目)
1943年 東京府立第二高等女学校入学
1948年 東京女子大学数学科入学。卒業後、東京大学理学部数学科での
専攻を経て、東京都立大学理学部生物学科で遺伝学を学び東京
女子大生物学科に助手として勤務。
1957年 藤田宏氏と結婚。
ご子息の育児の傍ら、東京医科歯科大学難治疾患研究所で遺伝学の
研究に取り組み医学博士を授与される。
1977年 47歳のとき、ご主人の勧めで、鍼灸医の学校に通う。
1980年 50歳で鍼灸師になられ、2000年まで国立国際医療センターの
麻酔科ペインクリニックに勤務。傍々ご自宅にて「淑子の鍼灸室」
を開業。現在に至る
伊能忠敬の6代目にあたるお母様から数学を学ぶ~体が弱かった子ども時代
――淑子さんの子供時代はどのようなものだったのでしょうか?
「子どものころは、よく風邪をひいたりして体が弱く、おとなしかったです。勉強が大好きでしたね。」「母は伊能忠敬の6代目にあたるのですが、数学が得意で教えてくれまして一生懸命取り組んでいました。数学の道に進みたいと思うようになりました。」
数学に打ち込み続け高女に進学
――第二高女に進まれてからも数学に打ち込まれたのですか?
「数学は高女でも得意科目で、成績もよく、一人だけ100点をとって先生に褒められましてね。大学も数学の道に進もうと思っていました。でも戦争が・・・・。」
高女時代の思い出は、セーラー服での勤労奉仕
――1943年に入学された、ということは戦況が悪化して行く時代ですね
「そうなのです。入学して間もなく共同印刷に学徒動員で駆り出され、登校は週一回だけでした。」「勤労奉仕には、4人のお友達と休まず通いました。電車もないので毎日永福町から渋谷まで徒歩で通って、セーラー服に腕章した格好でしたね。孔雀が羽を広げているデザインのビルマのお札を100枚ずつ帯封するお仕事でした。」「だから私たちは、お札を数えることや文書のページ数をかぞえるのが得意なのですよ(笑)」
数学の道をまっしぐら:(旧制)東京女子大学数学科卒業後、新制への転換に対応するための武蔵大学在学を経て、東京大学数学科へ
――高女を卒業されてからは数学の道をすすまれたのですか?
「(旧制の)東京女子大学の数学科に進学しました。お茶の水大学(当時、女子高等師範学校)にも合格したのですけれど、空襲よけのための黒塗のチャペルと緑の芝生が素敵なので東京女子大にしました。」「卒業してから新制大学で学びたくなり一般教養の単位を武蔵大学に通って補充し、東京大学の数学科の選科生になりました。」
――当時の世の中で、女性が複数の大学に通うことは珍しいことですよね
「私はひとりっ子でしたから、父はいつまでも手元に置いておきたくて『30を過ぎても嫁に行かなくてもよい』と言って、学問のための費用なら良い、何でも支援してくれたのです。」
数学の道から方向転換、遺伝学研究へと舵を切る。都立大学生物学科に進学。
――その後は数学を極めようと続けられたのでしょうか?
「いえ、それがですね、東大で学んでいるうちに、数学の応用が利く遺伝学の道に興味が湧いてきましてね。自分は元々動物が好きだということも手伝って、遺伝学の道に進みたいと思うようになったのです。」「そうしたら東京女子大の時にお世話になった先生が都立大学で生物学を学びなさいと仰って、それで都立大に進むことを決めました。」
出会い、信頼できると思った人を信じ切るということ
――今までお話をお聞きしていますと、道を選択するときに必ず良い人に出会っていますね
「ええ、信じられると思った方に相談して、それで素直におっしゃる通りにやってみること。だから結婚してからは主人が指南役で、言うとおりにやってきました(笑)」
ご主人(藤田宏さん)との出会いは東大の廊下。胸ときめき、色んなご縁をフルに活用
――では、一番の出会いということで、ご主人と知り合ったきっかけやその後のストーリーをお話しいただけますか?
「東大で数学を学んでいるころ、本を持って廊下を忙しそうに、歩いて行く主人をよく見かけましてね。」
――その姿に心動いたということですか?
「ええ、そうなのです。その一途でまじめそうで、真剣な姿をみて、心に響きました。」話しかけたいというよりは憧れて眺めていたという風情でした。
――それではまたこの時も色々な方とのご縁が幸運をもたらしたということですか?
「実は、その当時私に好意を寄せてきた方がいましてね、その方が主人の友達だということがわかったのです。」「そしてもうひとつ、最大の偶然がありまして、私が家庭教師をしていた中学生の学園の高校部での非常勤講師が主人だったのですよ(笑)」
――二つもの偶然が重なったのですね
「その中学生から学校の名簿をみせられたら藤田宏の名前があったというわけです。その学校に電話をして、例の主人の友人のことで相談がありますと言って主人を呼び出したのですよ。」
――普段大人しい淑子さんが・・勇気だされましたね。
「ええ、その時、これは私に強いご縁というか、運があるなと思ったのです。」
その後淑子さんは、友人のことを相談するために宏さんを呼び出し、六義園などで会われました。その間に、研究に打ち込む姿勢、姿とは対照的に、ユーモアがあり、よく笑い、面白いことを言っては淑子さんを楽しくしてくれる、宏さんのそんなところが心を捉え離さなかったのだとのことである。
1957年にご結婚。結婚後も宏さんは淑子さんの人生の指南役を続けた。淑子さんは、宏さんの勧めを素直に受け入れ、東女生物学科での勤務、医科歯科大学難治疾患研究所での研究を続け医学博士の学位をえられたのである。1958年にご子息を出産された。
ここで、ご主人「藤田宏さん」のプロフィールと人となりを紹介する。
ご主人「藤田 宏さん」について ~プロフィール
1928年 大阪市生まれ
1948年 東京大学理学部物理学科入学
1952年 卒業 その後、同大学院に進学
1956年 同助手
1957年 斎藤淑子さんと結婚 著書「大学への数学」出版※、
1960年 東京大学工学部応用物理学科講師、1966年より東京大学理学部数学科教授
1981年~1989年 東京大学理学部長
1964年藤原賞受賞、1990年紫綬褒章、2000年勲二等瑞宝章を受章
日本数学会理事長、日本応用数理学会会長、数学教育学会会長を歴任
※名著「大学への数学」著者
「大学への数学」は、月刊誌もあり、そちらは現在も続いているが、元々は大学受験生のための書籍として1957年に創刊され、数学的思考力とセンスが身に付き、難問もわかりやすく解ける名著として、多くの優秀な学生に読まれたことは勿論、各界の指導者達、最近では医学者達の多くが受験の指南書として愛読していたことで有名である。宏さんはその著者である。月刊誌の方では現在も毎年四月の巻頭言の執筆に関わっているとのことである。
※追記 小平邦彦賞受賞
宏さんはこの度(2019年)、生涯にわたる数学に関する優れた業績をあげた日本数学会会員を顕彰する目的で設立された第一回「小平邦彦賞」を受賞された。
少年のときに志した学問の道を、まっすぐに歩み、極める。
後進を思いやり、労を惜しまず育成に尽くす。妻もその一人。
原体験的な出来事が、宏さんに学問の道に生きる決意をさせた。
終戦の年(1945年)の6月、英語教員であったお父様と大阪郊外で遭遇。地面に伏せていたお父様がその場で被爆し、亡くなられた。16歳の藤田少年は子供心に人の命のはかなさを痛感した。その衝撃の体験を通じ決意したことは「人生の目的として、はかなくないことを為したい。」ということだった。それが、物理学科への志望につながったとのことである。7人兄弟姉妹の長男として、苦労されたお母さまとともに、父親代わりとしてご兄弟の世話をしながら学問に打ち込み、単身東京に出て東京大学理学部物理学科に進学された。このご苦労で身に着けた気配りと面倒見の良さが、後に指導者として優れた学者を輩出することにつながっている。
数学者の道を順調に歩み、要職を歴任、道を極める。一方で後進への思いやりと胆力を発揮
その後、スタンフォード大学に留学後、数学科でも併任助教授として教鞭をとり、30代で数学科教授となられる。その間に、大学への数学の執筆をはじめ、将来を担う若者への数学指導を行っている。また、教授になられた後、東大紛争での学生との調整を任された。その際に大切にしたことは「(履歴上の)ケガ人を出さないこと」「思いやる心と胆力でかかわること」だったそうである。そして数学の道も順調に、80年代の殆どを理学部長として過ごされ1990年には紫綬褒章を受章された。文革後の日中数学会交流再開での代表も務める。日本数学会、日本応用数理学会、数学教育学会のトップを歴任し、現在は東京大学名誉教授である。
教えるものの務めは、弟子たちが自分より偉くなることである
曰く「今はそう思っている方が少ないような気がしますが、私たちのころは、弟子が自分よりも偉くなること、それが務めと教鞭をとる者は皆思っていたと思います。」
弟子の適性を見出し、良さを分かってあげること 様々な方々に数学を教える
人生の様々な人とのかかわりに満ちた宏さんの後進との向き合い方である。だから教わる側には、数学が非常にわかりやすく、様々な方々が教えを乞う存在となった。後日、ある大学教授に聞いたところ、「説明が簡潔であり、読者・生徒本位の気配りを感じる解説」が他の受験書にない特長だったとのことである。その指導力から、上皇様、上皇后様が皇太子、皇太子妃であったころに数学を教えに参内していたこともあるそうだ。
少年期に学問の道を志し、極めるべく一本道を歩む学者である一方、やさしさ溢れる指導者でもある藤田宏さんは、多くの人とのご縁を素直に受け入れ変化しながら道を開いて行く淑子さんと1957年にご結婚された。ご夫婦として60年以上にわたり支えあう中、淑子さんはついに天職ともいうべき鍼灸医の道を歩む。勿論ご主人(宏さん)の導きである。
結婚後の淑子さんについて
「この人の言うことなら全て間違いない。」宏さんの冗談まで信じてしまった経験を経て、鍼灸医の道を40年
――淑子さんのお話に戻しまして、ご結婚後もご主人が指南役であったのですね
「そうです。私は医科歯科大学で人類遺伝学により学位を取得した後、厚生省の人口問題研究所からお誘いがあったのですが、主人の意見に従って辞退ししました。それで何をしたかというと、47歳のときに主人の勧めで鍼灸の学校に通いはじめ、50歳で卒業して鍼灸師の資格を取ったのです。」「でもそれ以前に、『君、下駄屋がいいぞ』 と言うものですから下駄屋を見学に行ったり、(笑)『床屋がいいぞ』と言うので理髪師養成の通信教育に申し込み、床屋用のいろんな道具を入手してしまって、二つとも本気で始めようと思ったのです。(笑)」
宏さんも、「こんなに信じ込んでしまうとは驚いた。ちゃんと考えてあげないと…」と思われ、思案の結果、鍼灸医学校への進学を薦められたとのことである。
鍼灸医として40年を経、卓越した鍼灸医として指名される存在に
――その後すぐ開業されたのですか
「いえ、1980年~2000年までの約20年間、国立国際医療センターの麻酔科ペインクリニックに勤務しまして、そのあと開業しました。」
――評判の名医でいらっしゃると聞きましたが
「いえいえ、ただ、ぎっくり腰やリュウマチ、花粉症、などに著効がありますが、印象に残っているのは、重症の肝硬変の患者さんの癌への進行を食い止める鍼灸治療に成功し感謝されました。また、逆子を治したことが何回かあり、奇跡的だと感心されました。」
――大学病院等からの紹介の患者さんが多いのですね
「はい、今日もこの取材の後に一人紹介の患者さんがいらっしゃいます。」
最後に、お互いの存在について
――淑子さんにとって宏さん(ご主人)はどのような存在でしょう
「夫であり師匠でしょうか。一番信じている人。先ほども言いましたが、この人の言うことなら間違いないといつも思っています。」「学問と勉強に対するひたむきさが素敵と思います。」
――宏さんにとって淑子さん(奥様)はどのような存在でしょう
「親代わり、爺や(じいや)がわりが淑子に対する私のスタンスなのでしょうかね」「何しろ私の言うことを何でも信じてしまいますからね。責任がありますね(笑)。」「純情なところ、つくしてくれるところが良いです。」
お母さまの教えで数学を志し、先生の勧めで遺伝学研究者の道に進み医学博士を修得。様々な良い出会いに導かれ、その人を信じ切る姿勢は淑子さんの幼少期からの一貫した生き方である。このことは、淑子さんには、自分にゴールを指し示してくれる出会いを選択する力があるのだと言える。その最大の出会いは、少年期の体験から学者を極める一本の道を、揺らぐことなく歩むご主人である藤田宏さんとの出会いである。
「この人の言うことなら信じて間違いない」と淑子さんが言い切る、人生最高の伴侶の勧めによって、ついに天職というべき鍼灸医の道に進み、極める。
そして藤田宏さんもまた、一本道をまっしぐらに進む疲れを癒し、エネルギーをくれる淑子さんの「純真さ」と「気遣い」に支えられ、歩みを順調に続けられたのである。
これからも末永く支えあい、お元気で天職を続けていただきたいと思う次第である。
(文責 75年卒 吉田)