高女卒業生訪問記

第2回 松本 紀子さん

 今から90年ほど前の早い朝、明るい日差しが指し始め、すずめの囀りが聞こえる中、通りには、出勤する紳士や、元気よくはなしをしては笑うランドセルを背負った子どもたち、天秤棒をかつぎ納豆を売るおばあさんの姿などがある。すると、通りに面した家の二階の窓が開き、満面の笑みをたたえた幼い女の子が顔を出す。そして「よがあけた、よがあけた~はやおきの、すずめはお庭のあちこちで、チュンチュクチュン、チュンチュクチュン・・・」と、当時レコード化された童謡「茶目子の一日」を歌いだす。道行く老若男女は、立ち止まり、その可憐な幼女の姿と歌声にひとときの癒しをもらい、笑顔へと変わり、拍手する。

その女の子の名前は紀子ちゃん。4歳である。「お嬢ちゃんお年はいくつ~?」「いい声だねえ、上手だね」「また歌ってね~」などと声がかかる。紀子ちゃんは、道行く人たちの反応が楽しくて嬉しくて、毎朝同じ時間帯に窓をあけては毎日練習している「茶目子の一日」を歌うのだった。

その後、紀子ちゃんは音楽を学び続けながら、戦前から戦後の変化の中を前向きに歩み、現在96歳、鎌倉女子大学学園主として輝きを放ち続けている。

~プロフィールご紹介~

松本紀子さん(旧姓 長井さん) 1941年卒

1924年生まれ

1941年 府立第二高等女学校卒業

1943年 東京家政学院卒

1950年 京浜女子大学(現鎌倉女子大学)学祖

             松本 生太の息子、松本 尚と結婚

1960年 京浜女子大学短期大学部教授

1993年 鎌倉女子大学・同短期学部学長

1997年 同理事長

2004年 学園主 

現在に至る



蓄音機と茶目子

松本さんは、今に至る長い人生、音楽を続けていらっしゃいますが、そのきっかけはどのようなことだったのでしょう? 

「自宅に蓄音機がありまして、当時1円50銭だったレコードを買ってもらっては、毎日聴いていたんですよ。」

その一つが「茶目子の一日」だったのですね

「そうなんです。なんだか毎日面白くて、楽しくてね、今もたのしいですけど(笑)。」

紙鍵盤の思い出

ピアノを始められたのはいつごろでしょうか?

「小さいころからピアノが欲しくてたまらなかったんですよ。それがね、あなた、最初は畳の上に白い紙に鍵盤を書いたものを置いて、それでバイエル練習していたのよ。姉さんたちには笑われたけど、絶対弾けるようになりたくて毎日毎日続けたのです。」

念願のピアノが来た。紀子さんの上手さに家族はびっくり

「父が文部省在外研究員としてイギリスに出張してね、お土産に何とピアノが応接に届いたのよ。当時600円もしたんですよ。もうびっくりでした。」

「紙鍵盤の練習の甲斐あって、バイエルは二回で全曲修了。先生も家族もびっくりだったわ。」

「いよいよ紀子さん(私)認められるときがきたわ。みなの者心して聴け、私のピアノを、という気持ちだったんですよ(笑)。」

音楽学校に進むために精進。しかし、戦争で断念

その後も音楽・ピアノの道をどんどん歩んで行かれたのですか?

「戦争がねえ、第二高女卒業の時に音楽学校に出願していたのですけどねえ。父からは『戦争中だし、いずれ嫁に行くのだから、家政学院に行きなさい』と言われましてね、断念したのです。」

高女時代の思い出は朝鮮大旅行

―松本さんはのちに音楽教育の道を歩まれるわけですが、それは後程とさせていただき、第二高女時代(日本の大戦参戦前)のことをお聞きしたいのですがよろしいでしょうか

「第二高女にはちょうど2・26事件の年に入学したのですけど、一番の思い出は何と言っても「朝鮮大旅行」ですね。日本国が併合した朝鮮を癒しに行きましょうということで計画されたのよ。」

「昭和15年の56日から二週間東京駅から汽車に乗って、車中で夜をあかして……京都見学をして、下関から船中に泊まって釜山に渡って、慶州、京城、平壌と、朝鮮を6日間旅したのです。そして帰国して、京都奈良から伊勢神宮に行って……先生方も、2週間にわたって50人もの少女を引率して、とても大変なご苦労でした。」

夏蜜柑でがんばろう!

―戦争前の情勢のなかで朝鮮旅行とは 反対されなかったのですか?

「日本は危ない情勢になっていましたからね。高女の生徒は良家の御嬢さんが多かったし、親たちの中には猛反対する方が沢山いらしてね、半数は行かなかったのよ。」

「でも私は行く方を選んだのよ。両親も賛成してくれてね。」

「夏蜜柑たべながら元気だして行きましょうってみんなで元気づけあって旅立ったの。」

つらい思いもしたけれど、行って良かった唯一無二の経験

――朝鮮大旅行で、とくに印象にのこっていることはどのようなものだったのでしょうか?

「船中で朝鮮の男性に睨まれて。朝鮮ではスリなんかがいて怖い思いも結構あったんですよ。」

「でも、行ってよかったわ。あんな経験できたのは私たちだけです。やりとげたのですもの。」

「アリランの歌を歌う女性の朝鮮服姿と艶やかな声、綺麗だったわ~哀しくて心に浸みるあの歌とあの姿、いまも思い出します。」

 そして東京家政専門学校に入学、2年間で家政科の教員免許を取得。音楽の道は中断したが、お料理、家事のプロフェッショナルとなられた。そして、戦後、自由な世の中となり、ふたたび音楽に打ち込まれた。お父様のご協力で、よい先生にも恵まれ、歌もピアノもどんどん上達されたのである。

あの白蓮さんとのご縁で結婚

―ところでご主人の松本尚さんとは、どのようなご縁で結婚されたのですか?

「わたしはボーイフレンドもいたし、恋愛結婚がしたいなあと思っていたのですけど、私の姉が白蓮さんと懇意にしていましてね、白蓮さんが今で言う女子会をよくやっていて、そこに参加していましたら、たまたま主人の母も来ていて、息子の尚の嫁をという相談をしていたんですよ。それでトントンと話が進んだのです。」「あの白蓮さんの媒酌で結婚したのです。不思議なことです。」

白蓮(18851967年) 大正から昭和にかけての歌人で、大正三美人の一人。白蓮事件で知られる。白蓮事件は、1921年に福岡の炭鉱王の妻であった柳原白蓮が社会運動家の法学士と駆け落ちした事件。新聞紙上で白蓮から夫への絶縁状が公開され、夫から反論が掲載された。当時センセーショナルなマスコミスクープ合戦となった。華族であった白蓮は、その後離婚が成立するが、様々な社会的制裁を受ける。恋愛をまっすぐに貫いた生き方に当時の女性は強く憧れた。2014年のNHK番組「花子とアン」に主人公の友人として描かれ、大きな話題を呼んだ。

音楽教育の道へ

―松本家に嫁がれて、教育の道にまい進されたわけですね

「主人の尚は、音楽にあふれる学園をつくるのが夢だと言ってくれてね。私は嬉しくてほんと、一生懸命に音楽を大学で教えました。」

「当時は学園の中に自宅があって、毎晩、寮の女学生をたくさん呼んでみんなで歌を歌って、食事をして話をして過ごしたのよ。楽しかったわ。」

 歌には、その時々の人々の様々な心の世界の物語が音の調べとなって湛えられている。

 音楽と歌のすばらしさをこの大学に集うみなさんにも感じてほしい、その思いを毎日込めて、松本さんは学生ひとりひとりと向き合い、精魂込めて音楽教育を続けた。

水の流れに従いて逆らわず。1993年学長に就任

1960年に教授、1993年には学長になられましたが、学長就任には戸惑われたと聞きました。就任に踏み切ったきっかけはどのようなものでしたでしょうか?

「わたしはね、しゃべるのは大の苦手だったのよ。だから学長を私が受け継ぐのは、務まるかどうかとても不安だったのよ。」「でも当時のJALの副社長だった町田さんから『あなたが学長をやりなさい。水の流れに従いて逆らわず、あなたは学長をやることに決められている』と言葉をいただいて、学長をやることに決めたのよ。」

どのようにして、今のようにお話が上手になられたのでしょうか?

「学長に徹して、学長バカになりきって、言うべきことを言って人格が変わったのかしらね(笑)立場が私を変えたということね。それもまた水の流れですね。」

「ええい、やってしまえ!」と決断、大船キャンパス開設

1989年に鎌倉女子大学に名称変更され、1999年に松竹大船撮影所跡地を購入されました。ちょうど時代が代わる平成元年でした、まさに決断ですね

「ええい、やってしまえって()

「よい土地だったし、自然に囲まれていて、学生たちの教育にはもってこいだと思ったのです。主人の尚が堅実な人でね、こつこつと貯蓄してくれていたからこそできたのです。」

人間の臓器は前についている。それは常に前に進めということだ」

「やってしまえという心の奥にはね、まっすぐに前に進んだ父と、現実に勇敢に立ち向かった義父の姿があったのです。」

「父はお寺の跡取りだったのだけれど、学問の道に進み、東大教授になり、日本の仏教学の第一人者となり紫綬褒章を受けた、学問を究めた人だったし、義父は、岩瀬にあった海軍の兵舎のバラックを払い下げて京浜女子大学を建てたんです。思い立ったら筋を通す人で、何回も何回も断られても食い下がって交渉しましてね。」

「義父曰く『人間の臓器は前についている。それは常に前に進めということだ』この言葉が強く背中を押してくれました。」

半世紀に及ぶ音楽教育の集大成、歌集「音楽の森」出版

―松本さんの音楽の集大成として、16年前に出版をされていますよね

「私が愛誦してきた歌236曲を集めた歌集です。君が代や鎌倉女子大学校歌をはじめ、日本の情景や四季を謳った歌、子守歌から欧米などの民謡、最近の歌まで収めています。」

そのネーミングの意味するところを教えてください

「森の中には可憐な草花や人をいざなう光と影の彩どりがあふれています。この歌集にはさまざまな時の人々の心や世界の物語が音の調べとなって湛えられていることから音楽の森としました。この素晴らしさを鎌倉女子大学に通うみなさんにも感じていただこうと思ったので出版したのです。」

2,000人が集い、教わり、共に唄う「音楽の森(建学の精神実践講座)」開講 

―出版と同時に音楽の森コンサートも始められたわけですね

「出版したあとに『この歌集をつかって、先生のお話も交えて音楽講座を開いてはいかがですか』と勧められて、先生方も「建学の精神実践講座」として正規の授業に位置付けて下さったのですよ。」

毎年1,600人も集まっての合唱、壮観ですね

「初回が2,000名以上、その後は毎回平均 1,600 集まりましたね。延べ25,500人以上の若い方々と一緒に唄えたことになります。よく16年も続いたものです。」

講座はどういう内容で進むのですか?  

私が唄う歌の持つ意味をわかりやすく解説しながら、1,600人で合唱するんです。」

「例えば、赤とんぼの短い詞には様々な意味があって、とくに三番の『十五で姐やは嫁に行き』は戦後文部省が旧弊だからと無くそうという話も出ていたのだけれど、ねえやにもう会うことのない母への強く切ない未練の心が投影されていて、三番なしには成立しないのですね。そういう大切な話を伝えて、その歌を合唱するんです。」

惜しまれつつ、16年続いた「音楽の森」講座終了

「昨年の128日の日曜日、紅葉坂の神奈川県立音楽堂で行った講座で終えることになりました。」

「もう八回目の子年を迎えるわけですから講堂の階段を上るのもとても難儀になりました。学長には『山口百恵のように惜しまれて辞めたいわ』と言いました()

―『音楽の森』終了の結びにあたり、松本さんは以下のようなメッセージを送っている。

「歌は人類が幼い歩みを始めた頃からの原初的文化、音楽の根本は、癒しと励ましにあります。『音楽の森』はこれでお仕舞にしますが、人類から歌がなくなることは絶対にないのですから、折ふしに学校で、家庭で、仲間で、会社で、美しい歌を歌い継いでいって下さることを願っています。」

 松本さんは、通りの茶目子さんに始まり、音楽を90年以上にわたって続け、音楽教育者として、鎌倉女子大学学長、理事長として、学園主として、様々な新しいことを決断し推進されてきた。そして、その前向きな生き方で、社会貢献活動の道にも歩み、女性の地位向上を標榜する国際ソロプチミスト鎌倉の会員として40数年も務められた。音楽の森は終了したが、今も松本さんは歌を唄い、ピアノ演奏も続けている。今年(2020年)68日に、鎌倉女子大学二階堂学舎で発表会「Sing&Dance」が開かれる。

 ここでは、「美しく青きドナウ」などを唄われる予定である。

 松本紀子さんは、96歳となられた今、そしてこれからも好きなことをやり続け、常に前を向いて歩み続ける。

 

(文責 75年卒 吉田)