初回掲載に相応しく、東京中野区にあるキリンホールディングス株式会社へ、代表取締役副社長を務める西村慶介さん(1975年卒)を訪ねました。(※今回は3月末に退任を控えるタイミングでのインタビューとなりました)
44年の長きにわたり活躍された西村さん。
取材は、多様な人間ドラマと学びに満ちていました。
1975年 竹早高校卒
1980年 横浜国立大学経営学部卒
同 年 キリンビール株式会社入社
2007年 麒麟(中国)投資社董事長総経理
2011年 キリンホールディングス株式会社執行役員経営戦略部部長
2012年 同社取締役
2014年 同社常務取締役
2015年 同社代表取締役常務執行役員
2017年 同社代表取締役副社長
2024年 退任
新聞などの発表で3月ご退任とのことで驚きました。今のお気持ちはいかがでしょうか?
一言で表すと「すっきり、さっぱり」という気持ちです。企業人として44年走ってきましたが、ようやく次の世代にバトンタッチできると思うと肩の荷が下りたような感覚です。退任が決まった昨年末からは、会社に来るのがそれまでとは違った感覚で毎日とても楽しみになりました。オフィスで働いている一緒に働いてきた仲間や後輩たちが、映画館のスクリーンで別の世界の人たちを観客として眺めているような感覚になって見えるんですね。何とも言えない不思議な感覚です。あー、もうあっちの岸に戻ることはないなと思う一種の感慨と、そこで頑張っている若い人たちが頼もしく見える。
キリンビールさんへの入社の動機はどのようなものですか?
大学時代にESS(English Speaking Society)に所属をしていたこともあり、海外に出て仕事をしたいという漠然とした希望を就職活動中から持っていました。当時の企業で海外赴任のチャンスが多くありそうなのは電機メーカーや大手商社だったので採用試験を受けました。それ以外の業界業界企業の企業の採用試験も受けていましたが、中でも一番海外と縁がなさそうだと感じていたのがキリンビールでした。海外から縁遠いと思っていたキリンビールを受けたきっかけはいくつかあります。一つは私の父の大学時代の同じ農学部の同級生がキリンビールで東京工場長を務めており、その方からお話を伺いながら工場見学をさせてもらったことです。そもそも父自身が学生時代にキリンビールへの就職を希望していたそうですが、当時は就職難で結局入社は叶いませんでした。そのため、息子である私に自分が果たせなかった夢を託すような気持ちで工場長だった同級生を紹介したようです。
西村さんのお母さまの実家は造り酒屋さん
幼いころからお酒の世界に親しんだ西村さん
希望の海外留学制度があったことが決め手で、キリンビール入社
もう一つは私の母の実家が造り酒屋だったことです。私が小さい頃は母の実家に行くといつも酒蔵や店先で遊び回っていましたし、お酒の配達回りに一緒に連れて行ってもらうこともありました。そのため、幼い頃からお酒の世界に触れ、親しんでいました。最終的には電機メーカーと銀行、そしてキリンビールから内定を頂きましたが、キリンビールに入った決め手は留学制度です。海外で仕事をするにはまず英語と経営の勉強をしなければいけないと思い、MBA留学制度の有無を調べました。就職情報誌には留学制度の有無や制度の派遣実績がまとめられており、キリンビールは毎年2名を海外留学させる制度でした。当時のビール業界は専ら国内市場相手の超ドメスティックビジネスで、そもそも海外志望の人材ははキリンを志望しないだろうと予想しました。また毎年50名程度の大卒採用者のうち、技術系の社員はほとんどMBA留学を目指すことのない時代でしたので、多くの社員が留学を希望する銀行や電機メーカーよりもキリンビールに入った方が留学できる確率が高いと考えたのです。また、当時のキリンビールは国内のビール市場で60%を超えるシェアを有しており、寡占状態であるとして独占禁止法に抵触してしまう懸念がありました。そのため、この頃から海外展開や新規事業の必要性が唱えられていたため、海外赴任のチャンスがこれからは増えるのではないかと考えたことも理由の一つです。
入社されてすぐに海外ビジネスを担当なさったのですか?
海外への希望を持ってキリンビールに入社しましたが、最初に配属されたのはビール 工場の労務課で 丸5年間働きました。その間は毎日の仕事が非常に楽しく、留学のことはすっかり忘れてしまっていました。そんな日々を過ごし入社3年目の年末の面接で、上司から留学制度 への応募を勧められたことで、「そういえば海外希望だった」と思い出すことになります。ただし、その時は結婚を間近に控えていたためお断りしました。しかし、翌年も再び上司の勧めがあり社内試験を受けたところ合格し、留学することになりました。しかし、留学から帰ってきても海外赴任はなく、海外の関係会社の本社側とりまとめ窓口やMAといった業務はありましたが、海外事業に本格的に携わるということはありませんでした。その後も人事部や秘書室、経営企画といった部署での仕事が続き、49歳になるまで海外赴任することはありませんでした。この頃には自身の年齢から考えて海外赴任の機会はないと思っていました。そんな中である日、上司から突然に中国への赴任の内示を受けました。具体的には中国に新設した法人の初代社長に、というものでした。
海外キャリアのスタートは「どうしよう」の連続乗り越える経験の数々を経て2015年に代表取締役常務執行役員就任され、再び海外事業に携わる
忘れもしない2005年の2月16日、私と日本人の部下2名、中国人の部下1名の4名で上海に赴任しました。上海に着いたものの中国語は全く分からず、英語も通じないため、これから先どうしようかと途方に暮れた、というのが私の海外でのキャリアのスタートでした。ちなみに、赴任前の会社の中国語研修はたったの30時間だったので、現地では言葉の壁に大変苦労しました。振り返ってみると、最初から計画していた会社員人生、海外キャリアでは全くなかったと思います。その後、上海に続きフィリピンのサンミゲルビールの副社長としてマニラに赴任しました。日本帰任の翌年 2012年に取締役に就任してからは調達・人事・法務を担当し、再び人事・総務等の管理系に戻りましたが、その後2015年から現在に至る9年間は海外のMAや事業提携を担当しています 。在任中にミャンマーへの進出とクーデターに伴う撤退、米国をはじめとする海外クラフトビールの買収、中国飲料事業からの撤退、インドのスタートアップのビール会社への出資、オーストラリア乳事業からの撤退、米国コカ・コーラボトリング事業のテリトリー拡大、コーポレートベンチャーキャピタルの拡充などを手がけました。また海外事業会社の統括や支援を通じて業績の拡大に努めました。
海外で働くことの面白さは何でしょうか?
海外で働くことの大変さであり、面白さというのは「自分がマイノリティになる」ことだと思います。日本にいれば圧倒的なマジョリティに属しており、特に日本企業では 同一文化・同一言語で阿吽の呼吸のような形で仕事を進められますが、海外に一歩踏み出してみる
と、自分の考えや思っていることを相手に伝えるには非常に高い壁があります。ただ、その壁を乗り越えて前に進むことが面白いことだと捉えると、とても明るく楽しい海外勤務になると思います。
海外事業、日本では味わえない醍醐味はどのようなものでしょう?
もちろん上手くいかないことは多々ありますし、様々なことで一定のレールが出来上がっている日本で過ごすことに比べると、力仕事のような側面があります。特に海外で事業を立ち上げるということは、環境や他者に自ら働きかけて道を切り拓くことであり、前例に縛られがちな日本の大企業組織に比べて、とても面白いと思います。私自身も中国での駐在事務所立ち上げの際には何もない事務所に電話回線を引くところから始めましたが、日本にいれば簡単に済むことも海外では一苦労です。 海外に限らず 新規事業の立ち上げなども似たような側面があると思います。 この「何でも自分でやらなければ始まらない」という環境こそが醍醐味だと思います。
後進の若い人に伝えたいことを是非お話しください
まず、「世界は広い」ということを知ってもらいたいと思います。自分が生きている世界がいかに限られた空間であるかを自覚し、一歩外に出れば実に色んな人々・文化があることを知ってほしいのです。我々の住んでいる世界は直接・間接を問わず多くの人々の関わりで成り立っています。その中には自分とは全く異なる言語、価値観、文化があり、自身はそれを構成する一部分でしかないのですから、海外ということに限らず自分の殻を破って視野を広げてほしいと思います。
多様性を味わってほしいということでしょうか?
おっしゃる通りです。一歩外に出て、外の世界から自分を見つめてみることも学びにつながると思います。私が海外に行けば海外から見た日本人、海外から見たキリンという視点から 捉えることになり、中にいたら気が付かないことに気づく、ということもあります。裏を返せば、中にいるうちは自分のことがよく分からないとも言えます。自分を客観視する。世阿弥の「離見の見」に相通じるものがあるかもしれません。
働くことのキーワードは「アナーキーであれ」
もう一つ伝えたいのは、「アナーキーであれ」ということです。これはキリンの若手社員にもよく話していることですが、会社に入ると決められた枠組みやシステムの中では、自分で考え、行動するという人間としての基本的な活動が疎かになることが多々あります。完成された仕組みの中で生活していると思考停止に陥ってしまうのです。この傾向は昨今、社会全体で強まっていると感じています。そんな時にアナーキーという意識があれば、完成された仕組みの中から独立し、主体的に行動したり、発言したりすることができるのではないかと思うのです。 政治不安や経済変動など先行き不安が叫ばれるVUCA時代に自分たちの将来や未来を自分たちで作るには、過去の成功事例や今ある枠組みにとらわれることなく、自分自身でこれからの社会の姿を主体的に真剣に考えてほしいと思います。
最後に学生の後輩たちに、社会に出る前に学んでほしいことや取り組んでほしいことを伺えますでしょうか
「何事も趣味をもってせよ」ということを伝えたいと思います。趣味という言葉は渋沢栄一の『論語と算盤』にも出てくるのですが、英語の「hobby」という意味ではなく、「面白み」という意味です。何に取り組むにしても、自分なりの面白みを見出しながら取り組んでほしいと思っています。仕事で言えば、どんな仕事であろうとも面白みを感じている人とそうでない人では、アウトプットに明らかに差があります。なぜなら、面白みを感じている人はどんな些細なことでも何か工夫してみようという意識がありますが、そうでない人は受け身の姿勢のため、そこには何も工夫は生まれないのです。これは仕事に限った話ではなく、高校生・大学生の勉強や人生全体にも当てはまると思っています。人生におけるどんなことにも面白みを発見し、楽しく、前向きに生きてほしいですね。
(写真右から西村さん、吉田副会長、東島 )
< 2024年3月4日 キリンホールディングス株式会社役員室にて取材させていただきました >
ー取材を終えてー
西村さんは思いもよらない出来事に立ち向かう中国での初の海外業務に始まり、楽なお仕事は微塵もなく常に自ら先んじて創意工夫と実行を繰り返してこられたことが良く分かりました。その原動力は「面白み」を感じて仕事をすること。できそうで中々実践できないことです。これが役員、副社長までに至る基本姿勢なのだと思いました。そして「アナーキーであれ」という言葉、様々な会社のルールや常識に縛られて毎日を漫然と過ごすのではなく、自由な発想を持ち主体的に動くこと。わかりやすくて力強い生き方の芯を教えていただいたと感謝で一杯になりました。