高女卒業生訪問記

 高女時代卒業の大先輩方とお話ししていて驚かされるのは、85歳以上のご高齢ながら若者を上回る活力を感じることです。戦前・戦中・戦後の日本社会の激変のなか、その活力の衰えは微塵もなく、熟成され、優しさ、そして生き方を貫く芯をもたらしています。このことは後輩である我々にとって、今後人生を歩む羅針盤になるのではないでしょうか。

第1回 水原 康子さん(前編)

~プロフィールご紹介~

水原康子さん(旧姓 神戸さん) 1945年卒(昭和20年卒)

91歳5人兄弟の次女として1928年(昭和3年)に生を受け、事業家として活躍されていたお父様、優しいお母様にたっぷりと愛情と、しっかりとしたしつけを受けて幼少期を過ごされた。そして昭和15年に東京女子師範附属小学校(現在の東京学芸大学附属 竹早中学校)に入学。昭和16年に東京府立第二高等女学校(都立竹早高校の前身)に入学された。そしてまさに第二次世界大戦のさなかに高女時代を過ごされ、戦後も沢山のご苦労を乗り越えていくことになる。そのなかにあっても大らかさと優しさ、そして自立した考え方を磨き続け実践し、幸せな家庭を築かれ現在に至っている。


 

 ご主人は、康子さんが88歳のときに先立たれたが、もともとは生家のお隣の幼馴染。よく一緒に遊んでくれた存在で、まさか結婚するとは思わなかったとのこと。のちにお母様のご病気の際、医師になられていたご主人が入院などの手続きや治療のお世話をしてくれたことがきっかけで、幼馴染から、めでたく結婚相手となったのだった(まるでドラマのようなお話しである)。

 ご主人についてもう少々触れさせていただくと、何とご主人のお父様は、大正天皇皇后(貞明皇后)の侍医を務められた方である。その一方で高浜虚子の『ホトトギス』から独立し、現在も続く俳句誌『馬酔木(あしび)』を興された同人のひとり、あの水原秋桜子である。ご主人が医師を続ける一方で機関紙の運営を引き継いでいたが、今は後継のお嬢様を康子さんが発行人としてサポートをしている。あと2年で創刊100周年 後進のためにという強い思いで康子さんは日々取り組んでいる。


 また、戦争体験をした方々と、若い女性の戦争体験を綴り、後進に伝えるべく『ひまわり』発刊に協力、執筆された。 ペンネームもお持ちで「日向 遥」(ひゅうがはるか)ひまわりに相応しく、暖かですくすく伸びやかな、素敵な名前である。なお、ひまわりには、第二高女卒業生(45回生)の「青木美樹子」さんも「山中里子」というペンネームで執筆されている。


第二高校時代の思い出は、ほとんど戦争

2年までの高女生活は、バスケット部員として過ごし、自由闊達、自立心を育てる校風のなかで楽しく朗らかな学校生活だったそうである。それが一転、3年から5年の間は、共同印刷で、軍需支援のための勤労奉仕に同級生みなと駆り出されたのである。なんと弾丸をつくる仕事だったそうだ。軍需物資の汚染水がもとで、ひょうそうを患う高女生もいたそうである。さらに軍票をそろえる仕事をしたそうである。今の10代の明るく弾けた姿からは想像もつかない少女時代、さぞつらかったろうと思ったが、淡々と、時に笑みをたたえながら語られる康子さんの表情や仕草から察するに、つらいことも悲しいことも、受け入れることができる、芯のしっかりした少女だったのだろうと感じられた。これは篁寿会の大先輩皆さんに共通した姿でもある。

日本は勝つと信じていたから、怖くなかったのよ

 報道、巷の声もみな、日本は神の国、神風が吹くと信じている雰囲気だったし、工場のごはんが大豆入りやお茶がら入りになっても、それこそ防空壕に入って、焼夷弾が降ってきても戦争の話はあまりしなかった。(勝つと思っていたんですものねえ)

 私は、健気な高女生たちの姿を思い浮かべつつ、当時の日本に対して、現代のフェイクニュースに対すると同様の憤りを感じざるを得なかった。

 

(文責 75年卒 吉田)